2-166

回想の室生寺 昭和52年冬の風景


 48年前の飛鳥路の旅で巡った岡寺と橘寺のうち橘寺へはミキオ君と歩いた4年前の飛鳥路の旅でも寄っていてしかし特に印象に残るようなことがなにもなくホームページに記事は書かなかったが48年前の橘寺も同じでこれといった印象がなかったのに対し岡寺は印象深かった。岡寺は開祖が義淵(ぎえん)という高僧であの行基(ぎょうき)や良弁(ろうべん)はその弟子だというからずいぶん古いお寺だ。飛鳥らしさを感じさせないお寺だがそれは村外れの高い丘の上にあって明日香村では珍しい現役の観音霊場だからだろう。
 仏像を観る旅ということで言えば48年前の飛鳥路では岡寺のご本尊が本命でどんな仏様かと興味津々だった。その本尊は如意輪観音菩薩坐像で飛鳥仏ではもちろんなく天平も後期の作でそれがぼくらの知る6本腕で片膝立てた如意輪観音の姿ではない普通に人間の姿をしていてしかも丈六(じょうろく)すなわち4.6メートルという巨大な塑像だったからぼくにはそれだけで見る前から異様に思えていたがそれが厄除けの観音様だというのだからこの目で見るとどこか不気味にさえ感じてその灰色の肌にゾッとした。岡寺の仏像にはほかに国宝で木心乾漆の肖像彫刻の傑作として名高い開祖義淵の坐像があり観ているはずなのに覚えていないのはよほど如意輪観音像の印象が強烈だったのだろう。
 ところで本堂内陣は岡寺のホームページによると1月から3月は一般の拝観ができないとなっている。厄除け法要のためだという。ぼくが行ったのは2月の末ごろだったが確かに本堂で本尊を観た記憶がある。そのころは冬でも拝観できたのかあるいは幹部候補生学校にいたころにも春先に行っているからそのときの記憶とごっちゃになっているのかもしれない。いずれにしても4年前の飛鳥路ではミキオ君にこの巨大如意輪観音像を見せてぜひ感想を聞きたいという思いもあったが岡寺と橘寺の両方は時間的にも体力的にも無理で飛鳥寺のあとどっちにするかを迷って結局後戻りせずに飛鳥駅に行ける橘寺にしていた。岡寺にしておけばよかったという気が今更ながらしないでもない。

 
 岡寺の仁王門 駐車している昭和50年代の車が懐かしい


 この記事はみっつ前の「明日香村の民宿」の続きである。「明日香村の民宿」では民宿で出遭った人のことを書いたがこのときの飛鳥室生への1泊2日の旅はそもそも古刹巡りだったのだからその文脈から言っても民宿だけ書いて終わらせるという法はなくそのとき巡ったお寺や仏像の記事が後に続くのが筋というものだ。それでこれを書いているのだがすぐに書かず日課のウォーキングや回想のORIGINシリーズが間に入ってしまったのはなぜかと言えばイメージが浮かぶとそれを即座に書くというのがこういった気ままなホームページのスタイルなんだと釈明してみても少しもわかってもらえないだろしそれがぼくの気分だと言えばますますなんのことかわけがわからないと思うが、間が空いたというのはつまりはそういうことだった。ぼくのような文筆家というわけではない素人が書くこんな気楽な文章でもいざ書くとなると考えがまとまらないでは書けないものでまた素人だからまとめるということが頗る下手でそうこうしているうちに他の記事が頭に浮かびあるいは前々からどう書こうかと悩んで停滞していた記事が突然前進してしまうと忘れないうちにとそっちが先になった。ぼくのホームページが本来続けて書くべき記事が散らばっている所以である。ぼくの書き方というのは先に最後に置く文章のイメージが頭の中に浮かんでその直後にその対となる書き出しの文章のイメージが浮かびその書き出しと最後を繋ぐ本文をくんずねんずして書くというスタイルだからそうなるのであって、その最後と書き出しのイメージが頭に浮かばないとどうにもならないのだし逆にそのイメージさえ浮かべば次々に書いてしまう。こんなことを書いているのは要するに「明日香村の民宿」と合わせて読んでくださいということで、それなら簡潔に一言そう言えば済むことなのだが、でもそれでは家電の取説みたいでそんなのつまらないではないか。(くんずねんずは金沢の方言でとても苦労すること。)


 明日香村で民宿に一泊して翌日は室生へ行った。室生口大野で貸し自転車を借りてまずすぐそこの大野寺へ寄ったと記憶している。今は拝観料を取るようだがあのころは拝観自由だったのだろう。ここでのお目当ては大野寺から数百メートル離れたところにある磨崖仏で室生川(宇陀川)右岸の大きな岩に巨大な弥勒如来立像が流麗な線刻で描かれていた。少しうつむき加減に視線を落としたどこか愁いを含んだ美しい弥勒仏で鎌倉初期のものだという。当尾の石仏巡りの回で書いた「ミロクの辻」の磨崖仏を彷彿とさせるがこちらが圧倒的に大きい。左下にある円のなかには大小たくさんの梵字も刻まれている。尊勝曼荼羅だというがそれがどういうものかは知らない。下の写真は川に沿った道路から対岸の磨崖仏を撮ったもので線刻はかなりわかりづらいが冬なので手前の楓らしい木は葉を落とし影もなく草も枯れていて磨崖仏の全体像がよくわかる。下の方に写っているのは室生川の流れで渇水期だから水は少ない。この弥勒仏を観られただけでもここまで来た値打ちがあるように思えた。

 
 大野弥勒如来磨崖仏 高さは14メートルもある

 室生川の穿つ峡谷を左に右に見ながら曲がりくねった道を室生寺へ向けて自転車を走らせる。よく晴れた日で柔かに注ぐ冬の日差しは暖かでも風を切って走れば頬に受ける風は冷たく道路わきの日陰になっている斜面で滲み出した地下水が凍ってつららとなっていた。この季節に室生寺へ行く人は少ない。途中自転車はもちろん車に追い抜かれることもすれちがうこともなかった。
 下の写真は室生口大野で中央奥に突き出て見える屋根が大野寺。磨崖仏はその左に見える露出した垂直の岩肌に刻まれている。室生寺は山並みの遥か奥で室生峡谷に沿った道を縫うようにして7キロ行ったところにある。

 
 


 室生寺は真言密教の寺で太鼓橋を渡ってすぐの表門と鎧坂下の仁王門の石柱に「女人高野」とあり昔は女の人は高野山には登れずここなら入れたというのだが、今でも不便なこんな山の中にこんな立派なお寺を建てたのは賢m(けんけい)という元興寺の坊さんだった。朝廷の命を受けてのことで皇太子時代の桓武天皇が病気になったとき龍神に怨霊退散の祈祷をして功があったことが縁だというから話は複雑でわかりにくい。室生は今も昔も先ず龍神信仰の地である。
 室生寺の本堂は如意輪観音坐像を本尊とする灌頂堂だが拝観の中心は金堂で観たいのはその内陣だ。十一面観音菩薩はじめ5体の立像の前に10体の十二神将が隙間なく並ぶ。この十二神将はぼくには造形表現が凝り過ぎに見えてあまり好きではないが12体揃っていないのはおそらくスペースの関係で全部並べられないからでどれか2体が常に奈良博へ寄託に出ていた。12体全部観たければ両方へ同時期に行く必要が最近まであった。最近までというのは近ごろ金堂の諸仏の一部は新設の宝物館に移され十一面観音菩薩立像や地蔵菩薩立像などに混じって十二神将も半分がそこにあり残りの半分は薬師如来の前で横一列に余裕で並んでいるそうだ。ところで多くの仏像が濃密にひしめく昔の金堂内陣は壮観と言えば壮観だったがやはり諸仏が濃密に並ぶ東寺講堂とはちがってただ並べ立てただけでどこか不自然にも見えてあちこちの温泉宿でお土産に買って来たこけしを詰め込んだ茶の間の茶箪笥の上に載せたガラスの陳列ケースみたいでぼくは好きではなかった。でもあのこけしみたいに仏像の並んでいた様子が今はもう見られないのはちょっと寂しいような気もする。人の思いとは勝手なものである。

 
 室生寺の金堂外観は同じでも内陣の様子は今ではずいぶん変わっているらしい

 金堂の前の広場に弥勒堂というお堂があってなかには檀像風の弥勒菩薩立像が本尊として安置されているがぼくが行ったときの堂内にはなんでそこにあるのかわからないという釈迦如来坐像が本尊の左隣にあった。釈迦仏ではなく薬師仏だろうと言われているこの如来像も今は宝物館に展示しているという。


 弥勒堂の対面に室生寺とは無縁の村の鎮守社の拝殿があってその横にちょっと大きく立派な軍荼利明王の石仏があった。だれも気にも留めないこの石仏観たさに室生寺へ来たと言えばまたまた大袈裟なことを言う人だと思うだろうが目的の49%はそうだった。それはともかく軍荼利明王も石仏にするとかわいいもんで左右の肩から出る8本の腕が蟹の足みたいに広がる。軍荼利明王の腕の数は胸の前で交差させた腕も含めて8本が決まりだがこの石仏は10本あるように見える。鎮守社拝殿も近ごろ建て替えらたようだが軍荼利明王の石仏はそのままそこにあるらしい。 2025年5月9日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)

 
 鎮守社の横にある軍荼利明王の石仏
左の窪みには「煩悩即菩提 生死即涅槃」と真言密教の人間観が刻まれている





写真 虎本伸一


 ホーム 目次 前のページ

 ご意見ご感想などをお聞かせください。メールはこちらへお寄せください。お待ちしています。